五十嵐 清隆 Feed

会社の帰り道、私だってたまには星を見ながら歩きます。冬の澄んだ空気は川崎でも星をきれいに見せてくれます。

夜空を見上げればすぐにオリオン座の三連星が目に入り、シリウス、プロキオン、ベテルギウスの三つの一等星からなる冬の大三角が星空の主役を演じています。しかし何と言っても忘れてならないのはプレアデス星団です。オリオン座の右側肩斜め上にあり、肉眼でも見えるこの輝きは古くは清少納言から「星はすばる」と言われたことで有名です。低倍率の望遠鏡があるとそこに宇宙の神秘を垣間見ることが出来ます。

何光年も経て届く一点の輝きはまるで私達に何かを伝えようとしているかの様です。そこにあるのに決して手の届くことのない夜空の輝きから、私達は神の領域の空間軸と時間軸の存在を感じます。星々は私達に人の弱さと強さを同時に教えてくれている気がします。

年始から今年は出会いの一年になる予感です。先週はFBで見つけたよと連絡が入り30年ぶりの友人に会いました。この金曜日にはやはりFBで再会し15年ぶりの友人と時間を共にしました。宇宙も人の出会いも神秘的ですね。今年はこの勢いで出会いの連続の一年にしたいと思います。星の輝きも友人の笑顔もそれに出会えるらこその人生です。

今年こそただただ前に進み、何でもやりたい事をする年にしたいですね。

本年もよろしくお願い致します。

驚きを辞書で調べると「未知のものとの出会いを知らせるといった特色をもった情緒」とあります。意味が分からず驚きです。

そんな中、未知のものと言える発想に出会いました。歴史学者磯田道史氏は著書「日本史の内幕」で歴史好きが推測してやまない、秀頼は本当に秀吉の子供か?の問いに真っ向から向き合っているのですが、その解明方法が驚きでした。つまり、秀頼が生まれる十ヶ月前に秀吉と淀殿が同じ場所にいることが二人が親子である絶対条件になります。そこを古文書から洗い出すのです。

その時期秀吉は名護屋(九州)にいたそうで、そうなると淀殿がどこにいたかで答えが決します。まさに日本史という文系学問に方程式という理系的発想を突っ込んだ考え方です。その発想に学者の知性と信念が感じられ感動すら覚えました。どんなに探しても秀頼様は実は....などと書いてある古文書などあるわけないですね。真実探求のアプローチが一つではないことを教えられました。

そして、問題の淀殿の消息ですが、その時期やはり九州にいたのでしょうか...。その先は磯田氏の日本史の内幕をお読み下さい。

今年ももう終わろうとしています。驚くほどあっという間の365日でした。来年こそ全員で驚くほど充実した年にしたいと決意を新たにしています。

皆様一年間ご愛読ありがとうございました。

素晴らしい新年をお迎え下さい。

今日は上野、大手町、堺筋本町と三つのポーターズペイント工事が着工しました。

大手町の監督さんは「昨夜から通しですよ」と笑っていました。弊社の塗装壁面を作るために頑張ってくれていたようです。綺麗な壁面が出来ていました。仕事と正面から向き合う姿はそれだけでカッコいいですね。少し感動しました。

やはり人生は冒険です。どんな事だって冒険と思い進んでいけば世の中につらい事など一つもありません。多分。

笑いの神様も大切ですね。インディージョーンズ最後の聖戦のショーンコネリー(ジョーンズ教授の父親役)の有り様は人生のバイブルにすらなり得ます。常にユーモアーを忘れない大人の男の余裕とはかくも素晴らしいものかと教えてくれます。忘れてはならない本質がそこにはあると思います。

さあ今日も笑いの神様に見守られながら冒険を続けていきましょう。

三木一草。と言っても草花の話ではありません。南北朝時代に南朝後醍醐天皇を支えて戦った四人の武将を敬意を込めてこう呼びます。

楠木正成、名和伯耆守、結城親光、千種忠顕。前三人は名前にキがつき、千種はチグサと読みます。七百年前の人々の洒落は文学的なセンスであふれています。

この四人の武将は劣勢の南朝のために奮戦するのですが、時に利あらず神戸や京都での戦いで相次いで討ち死にします。吉川英治はこの状況を小説で「三木一草皆枯れ果て」と書いています。哀愁漂う名文です。

今年は私にとって様々なことがあります。

生きていれば色々な事があります。新しい家族が出来たり、大切な人が亡くなったり、毎日が楽しいこと、悲しいこと、辛いこと、嬉しいこと様々です。

どんな時でも堂々と自分流に生きる。どうでしょうか。当たり前?でもそんな生き方を実践している人はとてもまぶしく見えます。

結果に責任を持たなければなりませんし、社会には様々な制約もあります。そもそも自分があるのかといった問題もあります。頑迷固陋もいけません。こう考えると自分流の免許皆伝は言うより難しいのかもしれません。でも、自分はあくまでも自分でしかありません。これが出来れば最高の生き方になると信じます。ただただ前に。人生はそっくりそのまま自分のものです。

驚くほどの速さで秋がやって来ました。
わずかな肌寒さが気持ちよく感じられますが、あの夏の暑さはどこに行ってしまったのでしょうか。歳月人を待たず。世の中で唯一確かなことは時の移ろいなのだと感じます。
そんな中、こんな文章に出会いました。
「あなたは人生において、なにで有名になりたいですか」
新聞のコラムがドラッカーを引用していたのですが、弓をギリギリと絞りマトのど真ん中にズドンと命中させたようなケレン味のない言葉です。チコちゃんではありませんが「ボーっといきてるんじゃないよ!」ということですね。
盛年重ねてきたらず。時に及んでまさに勉励すべし。なにで有名になりたいか。人生の折り返しをとうに過ぎた私ですが、今更ですが秋の夜長じっくりと考えたいと思います。いや、実際もうそろそろ考えるのやめて行動なのでは。はい分かっております。

夜空を見上げると満月と雲の流れが高く草むらでは虫の声が聞えます。すっかり秋の気配と言いたいところですが気温と湿度は真夏のままで、心と体感のずれは何と表現すればよいのかちょっとわかりません。
多分これまで我々日本人が体験したことのない状況です。そんな気候を表す言葉を我々はまだ持ちませんね。新語を作るしかありません。
そんなこの頃ですが、今朝の天声人語の冒頭は衝撃的でした。
「芸術は爆発だという名言で知られる故岡本太郎は20代をパリで過ごした。帰国後「わび・さび」を基調とする日本の伝統美に幻滅する。自国文化から彼を救い出したのは縄文土器だった」
わびさびは日本人の誇る感性で、これこそが日本人の根底に流れる精神の美しさと私は信じてきました。それに幻滅し、しかも土器に救い出されたなどとはいくら岡本太郎さんと言えど驚きです。
朝30秒考えた末に、様々な意見があって然るべき。これぞ10年前にはやったパラダイムシフトか。だから人生は面白い。と私なりの結論に達しました。岡本太郎さんありがとうございます。
しかし本当は爆発にわびさびを融合させた芸術を見せてくれたのならもっと良かったのではと考えがまとまらずです。

ノルウエーの最北は北極圏に入るそうですが、その地の気温がついに33度に達したそうです。私達のここ100年の営みが気候をおかしくしている事はどうも間違いなさそうです。
地球における人の立場は人におけるガン細胞の位置と同じだと何かで読みました。つまり、自分が繁栄し増殖することを原因として本体が破滅しその結果自己も滅亡するという事です。大いなる矛盾と言えます。
では人はなぜ地球上に出現したのでしょう。人は全て地球上にある物質で出来ています。身体のどこかだけ惑星Xの物質で出来ている事はあり得ません。つまり人は地球の一部なのです。もうお分かりですね。そう地球は自らが何者であるかを知るために自己を考える装置として人を創り出したのです(とこれも何かに書いてありました)。
考える装置(=コンピューター)が暴走する。まるでターミネーターです。すでに人はあの骸骨ロボットと大差ないのかもしれません。
いずれにしろこれからは観測史上初が連発されるのでしょう。このままでは80年後は四季が二季になるそうです。見知らぬ明日の始まりです。この流れを止める方法を私たちは見つける事が出来るのでしょうか。
話をぐっと身近にするしかありません。まずは栄養と睡眠。何かあったらすぐ逃げる。この三つが肝心ですね。家の断熱も欠かせません。その上でこれから起きるあらゆる事をしっかりと見届けたいものです。

ワールドカップ。ケースケホンダ、さすがです。激戦に目が離せません。でもワールドカップが終わったらたまには海をみに行くのはどうでしょうか。

青い海と空。白い砂浜。遥か水平線には決して手が届くことはありません。海を前にするとその無限すら感じる広大な空間は私達が地球のほんの一部でしかない事を実感させてくれます。

昔行ったハワイでホテルの10階から見下ろしたワイキキの海はあまりの美しさで衝撃的ですらありました。

しかし、なぜ海はそれを見る私達に特別な感情をもたらすのでしょうか。

たしか北杜夫さんがエッセイでこんな事を書いていました。

「海を前にした時に湧き上がる感情は、遠い昔に我々の祖先が海から上がってきた事と無縁ではない。そして、海の深さはそのまま我々の心の深さと一緒である。」

さあ、夏がやってきます。外に出ましょう。青い海が待っています。

先日、娘が幼い息子二人を両脇に抱え、重い買い物カゴを持ってスーパーのレジに必死に並んでいたそうです。長蛇の列の中長男はお菓子と駄々をこね、なぜか泣く次男。忍耐力だけが全てだったそうです。

すると今まさにレジ開始のおじいさんが振り向いて「大変だね、急いでないのでどうぞ」と順番を変わってくれたそうです。しかも、娘がレジ後買ったものを袋に入れていると、やって来て「坊やよく我慢したね」とチョコパンをくれたそうです。

全く巨大なおじいさんと言わざるを得ません。娘達がもらったものは順番やチョコパンだけではありません。何かもっと大きなものをもらった気がします。

人生の本質はこの与えるにあるのだと最近ようやく気付きました。困っている人を助ける。あとから続く人に伝える。人生の醍醐味はここにあると思います。天下国家を動かすのはそれは男子の本懐です。確かに一億人に影響を与えるのはすごいです。ですが真剣に目の前の一人と向き合うこともカッコ良いですよね。

先日ひょんなことから感謝について考えざるを得ない状況になりました。

「周りの全ての人に感謝します」。平昌五輪。日本人メダリスト全員がこの言葉を口にしていました。そこには当たり障りのない社交辞令などではない勝利への本質が隠されている気がしてなりません。

メダリストに限らず何かを成し遂げた人は言うに難い努力をしたはずです。決断をし、行動をし、頭をフル回転させ、自分を信じ、許される時間のすべてを注ぎ込んで勝利を得たはずです。その圧倒的な過程において人間力がぐっと深くなり、結果として周りの人の姿が良く見えるようになり、勝利の瞬間に感謝の気持ちが自然と沸き起こって来たのではないでしょうか。ライバルにさへ心から感謝する選手がいて感動しましたが、そう考えると納得がいきます。

これが正しいなら、助言としてよく言う「人に感謝しなさい」は「人に感謝出来る人になれるほど努力しなさい」が正しい気がします。